「時間のうまい使い方と必要な能力」について考えてみました

唯一この世で平等なのは、万人にとって「1日に与えられているのは24時間」ということです。

すると、時間をいかにうまく使えるかが重要になります。そのために求められるだろう能力を、社会に出る前と社会に出た後に分けて考えてみました。

時間の使い方

「ヒトは必ず老いて衰えて死ぬ」「いつ死ぬかわからない」「1日に与えられているのは24時間」だとすると、結局「いかに時間をうまく使えるか」がポイントだと思われます。

「時間をうまく使える」というと、ついつい効率性とか意識高い系のお話に結びつきがちです。

ビジネスですと、「同じ結果ならいかに短い時間で出せるか」「同じ時間ならばいかに高いクオリティの結果を出せるか」ということになります。

でも、人生はビジネスだけではありません。時間のうまい使い方は「いかにダラダラした時間を作れるか」ということでもあります。

このことから、ポイントは以下の点ではないかと思われます。

  • いかに早くモノゴト(の本質)を理解できるか。
  • どうすれば理解できるのか自分なりの方法論がわかっているか。

1回読んだだけで、1回聞いただけで理解できれば、授業に出たり動画を見たりセミナーや研修などに出る必要がありません。 これはお勉強だけではなく、仕事を覚えたり、家電の取扱説明書を理解するなど日常あらゆることに妥当します。

時間だけが平等なわけですから、早く理解できるということは他のことに時間を使えるため、他の勉強をしたり仕事をしたり、あるいはボケーッとリラックスできます。

大展開すると、長い目で見れば有意義な人生を送れるということです。

それに、部下など他人に何かをお願いする場合に、自分がうまく理解できていないと、いい伝え方ができないわけですから、他人がうまくパフォーマンスを発揮できません。よっぽど他人がデキるヒトでないかぎりは。ブーメランで自分に戻ってしまいます。

社会に出るまでのお勉強

この早く理解する力を養うのが、社会に出る前のお勉強だと思います。この時期のお勉強というと、ついつい「試験でいかに高得点を取るか」になってしまいますが、より重要なのは次の点について自分なりの方法論を身につけることだと思います。

  • どうすれば理解できるのか
  • どうすれば覚えられるのか
  • どうすればアタマに定着させられるのか

同じ参考書や同じ授業聞いているのにどうして成績で差がつくのでしょうか。それは理解力の差(理解の深さと理解の早さ)にあると思います。

ちょっと上からで申し訳ございません。誤解を恐れずに申し上げますと、成績が思うように伸びない人にかぎって、そもそもやるべきことをやっていない、覚えるべきところを完璧に記憶できていないし、解けなかった問題を完璧かつ迅速に解けるまで復習していないし、思うように成績が伸びないと粘れずにすぐにあきらめてしまい、どうすれば自分は理解できるようになるのかという貪欲さが足りないように思われます。

社会に出てからのお勉強

ところが、社会に出ると学校までとは一転して持ち込み可カンニング可のやりたい放題です。書店や図書館やWebサイトで検索して情報収集して学ぶこともできるのです。

学校までは自分のアタマで記憶することが重要でしたが、社会に出てからは覚えているよりも、知りたい情報や確認したい情報にいかに早くアクセスできるか、理解できるかがが大切になります。

しかも、学校までの与えられた課題や問題を受動的に解くのとは異なり、自分で問題を作ってそのうえで答えを出さなければならないこともあります。

「高学歴なのに仕事ができない」というヒトは、ひょっとしたらこの部分がニガテなのかもしれませんね。

また、学校までは必ずしも常に満点を取る必要性はありませんが、社会ではカンニングや持ち込み自由のため、時間内に完全完璧が求められることも少なくありません。

具体的には次の能力が求められると思われます。

  • 何が問題になっているのか見つけ出せる能力
  • 問題解決に当たって何がわからないのかが具体的に特定できる能力
  • わかるためにはどう調べたらよいのかが分かる能力
  • 実際に調べて理解し解決できる能力

逆説的ですが、何がわからないのかが具体的に特定できるためには、ある程度のレベルまで達していないといけないということです。

他人に教えを乞うのは時間の節約か

ヒトである前にドーブツなので、老いていつか死ぬことは確実です。フィジカルのみならずメンタルでも日々老いていきます。

メンタルな老いのひとつは、新しいことに取り組むのが面倒になることだと思います。デジタルデバイスへの対応が典型的です。

ところで、時間をうまく使おうとすると、他人に聞くことはいちいち調べるよりも手っ取り早くて時間を節約できそうなので有効で楽チンな方法なように思われます。

ところが、やっかいなことに、オトナになって年を重ねると「「こんなこともわからないのか」と言われるのが恥ずかしい」という見栄というかプライドもさらに増してきます。しかも、学校までのお勉強ができた人にかぎってそういうふうになりがちです。

問題特定と伝達

さて、他人に教えを乞うときは、「自分は何が知りたいのか、何がわからないのか具体的に特定できる能力」に加えて「それをうまく他人に伝えられる能力」が求められます。この2つが的確でないと、他人からのアドバイスも的を得ないため、結果として意図に沿わない誤った判断や行動をしてしまうことになります。

他人の時間を奪っているという気づき

併せて重要なのは、他人に教えを乞うということはその人の貴重な時間を奪っているという気づきが必要です。自分の理解力のなさを棚に上げて、他人の時間を奪いながら「教え方が悪い」などと文句を言うような愚かなヒトは多々います。

たしかに、他人から教えてもらってもなかなか理解できないこともあります。他人の教え方にも問題があることも少なくないとは思いますが自分の理解力について謙虚になることも大切でしょう。

さらに、他人に聞く場合には、他人に「この人の質問をちゃんと聞いてやろう」「ちゃんと答えてあげよう」と思ってもらえるような徳というか社会性なり社交性が求められます。

いきなり上から偉そうにタメ口で聞いてくる人に、丁寧に教えてやろうという気持ちになるでしょうか。

親切で有能な他人が常に即座に対応してくれるとはかぎらない

このように、他人に教えを乞うことにもいろいろな能力が求められますが、教えてくれる他人が常にすぐに対応してくれないとたちまちお手上げになってしまいます。

ネットで教えてくれるかもしれませんが、信頼性や信憑性の問題や対価の問題もあるかもしれません。信頼性を判断できるのもまたある程度のものが自分のアタマに入っている必要があります(リテラシーの問題)。

ラクするための苦労

実は、悶々としながらも、試行錯誤する苦労を積み重ねていると、たとえ現在直面している問題ではムダに終わっても、これから直面するであろう問題で役に立つことがあります。

他人に丸投げで時間を節約することも重要ですが、試行錯誤して失敗して悶々として反省することもまた貴重で、解決への糸口というか引き出しをたくさん持てば持つほど結果的に迅速な理解や的確な調べに繋がります。

将来の時間を劇的に短縮できることにつながるかもしれません。「楽するためにあえて苦労する」という矛盾が大切なのかもしれません。

( おわり )